読書記録
第二言語習得理論は、外国語科に限らず、どんな教科の教員も応用しやすいのではないかと思う。心理学がベースになっているせいかもしれない。
今回、第二言語習得理論にまつわる書籍を読んで、自分の授業に生かそうと思った知識の一つに、“教室内の権力・アイデンティティは、言語学習に複雑に影響する。”というものがある。
例えば、
- 学習に対する動機づけがいくら強くても、教室内で力に不均衡があると、しゃべるのに気が進まなくなる。(P94)
- 成功/不成功、おしゃべり/おとなしい、などのアイデンティティが、教室ではすぐに割り振られる→学びに影響する(P94)
- 話し合いなどを通して学習者としてのアイデンティティが確立できていないと、高校生は学習に投資する気が起きない(P95)
ということがあるそうだ。教室環境の整備については、教員が重い責任を担っているという自覚を持つ。
また、“教授がどのように行われるべきか、という学習者のビリーフは、教師の観点とズレることがある。(P96)”という研究結果も、授業するときには忘れてはならない観点だと感じた。
「最終的に言語をマスターするためには、正式な言語学習が必須だ。」という意見について、学習者側は大部分が是とするのに対し教師側では半分強だったそうで(P96)、どんなときも学習者と指導者でビリーフが異なる、というわけではないはずだが、「ビリーフが異なることもある」ということを覚えておく。
最初から完璧なものを教師がどれだけ求めているか、どれだけ求めていないか、のような点では、ビリーフにズレがありそうだから、そこは丁寧に生徒に説明しようと思う。
言語はどのように学ばれるか――外国語学習・教育に生かす第二言語習得論
- 作者: パッツィ・M.ライトバウン,ニーナ・スパダ,白井恭弘,岡田雅子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/09/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ニセTOK授業を行ったクラスのアンケート結果
ニセTOK授業を行ったクラスのうち、3番目のクラスでのアンケート結果を記録しておく。詳細な内容は省略するが、5点法で取ったアンケートの平均点を実施前(4月)と現在(6月)で比較してみる。
統計的な手法を使った分析は別途行うことに注意されたい。
- 「論理的思考ができるかどうか」という項目は2.8から2.9に微増。有意ではないかもしれない。
- 「根拠の有無や信憑性を考慮する」という項目は、3.5から3.7に数字上はアップ。これも、有意差ではないかもしれない。
- 「探究的な気持ち」は、4.1から3.8に下がった。「探求したい!」という気持ちが減ることなんてあるんだろうか。考える楽しさを感じてもらえるように努力したつもりだったが、力不足だ。私の担当は2コマ/36コマ(月〜金×6daysシステム)なので、私一人の授業のせいとは言い切れないが、学校が生徒のこういう気持ちを削いでいるんだったらヘコむ。
アンケートを取って、クッキリと効果が見えないとき、いつも考えること:
- 40人という集団は、思考力を高めるためには多すぎるのかもしれない。
- 自分はまだまだスキル不足。それをクラスサイズのせいにしてはいけない。
- 「ニセ」だからダメで、「ホンモノ」だったらもっと劇的な効果があるのかもしれない。
- アンケートでは、生徒の質的変化は測れない。
- 3ヶ月は高校3年間の1/12なんだから、成長してしかるべきだ。
- 3ヶ月では生徒は変わらない。
一人ひとりの意見にスポットを当て、バイアスや暗黙の前提条件を洗い出すことがもっとできていたら…もっとこうしておけば…ということはなくならない。
TOK知の理論の本丸/本体/本質はなにか?悩みの記録
わずかな時間数で、TOKの「エッセンス」を授業するとしたら、そこで外せないものはなんだろうか。ニセTOKを試してみる中で、自分の心境は目まぐるしく変わったので、その変遷を記録しておく。
(1)AOK、WOK 【はじめに仮定した】
↓
(2)深い思考・吟味・比較・反論を想定・原因の分析・ソースの評価
↓
(3)知へアプローチするための認知的枠組み【今】
5月頃まで(2)だと思っていたが、なんとなく違和感を感じる。これはTOKじゃないんじゃないか、と直感で思ったのでそれを記録しておく。私のクラスは40人生徒がいるが、40人いると、生徒1人ひとりが考えを書き、相互作用を起こさせるようなプロセス・環境を授業中に作ることになる。それだけで精一杯で、授業デザインの8割を、その環境づくりに囚われていた。でも、それだけではだめだ。教えるべきことが確実に存在する。
ただ「物事を深く考える」ことだけがTOKなのではない気がする。TOKでは、なにか新しいものを生徒に与えないといけないのではないか?今はこのような考えを持っている。どのようにAOK、WOK、知識の枠組みをどのように分析するか、という内容やスキルにフォーカスしないといけないのではないか。
以下のような実践が、非常に参考になる。
探究的な活動を高校生に“させたい”なら・・・
「探究」=善、というイメージが広まって久しい。
探究的な学びは、いいに決まっている。たくさんの人が、自分の分野に探究を盛り込もうと努力している。
たとえば
教材も出揃ってきた。
総合探究講座 | Z会 | 日々の学習から受験・資格まで、本物の学力を養成する教育サービスを提供。
私の研究フィールドである高等学校でもそれは同じで、「探究」はバズワードである。たしかに、高校生に、よりよい方法である「探究的な学び」をしよう、とすすめることはたやすい。しかし、高等学校の段階ではいくつかの障壁がある。私はそれをいつも、「読書」のたとえを使って説明している。
「読書」は、高校生にとって絶対的にいいことだし、本との出会いは価値のあること。でも、部活もあるし、明日の予習もあるし、なかなか時間を取れない。定期試験の前は部活がないけれど、試験勉強とトレードオフしたらやっぱり読書に割く時間は取れなかった。
これと全く同じことが、「探究」でも起こる。自分のエクストラな時間を使うなら、より価値の高いものに使いたい。「読書」のように、短期的な効果に直結しないものは、すぐに優先順位がガタ落ちしてしまう。私の所属校でも、選択制・放課後の「探究」の活動が選ばれないことが多い。それを「部活」とか「文化祭準備」とかに比べて「探究」の価値が低いからだ、と同僚にディスられたこともある。
だから、一番の解決策は、教育課程をいじって「探究の時間」を作ってしまうことだ。実際多くの学校で取り入れられているし、総合的な学習の時間を使う学校も多いだろう。「やれ」というタテマエを取るなら、探究的な活動、調査や研究を思いっきりしていい「時間」(=「評価」も行われる)を担保してあげるのが、最も有効だ。
私の個人的な意見では、探究を取り入れよう!という主張は、必然的に、どのような手続きで、いつから、どのように時間割を変えていくか、というテクニカルな議論になるはずだ。それを無視している人は“ホンキじゃない”と思ってしまう。
(TOKをコアとして、TOKに時間が確保されている、TOKの最終試験もある、というDPカリキュラムは優れていると思う所以である。)
「松本清張の授業」に私がこだわる2つの理由
旧い友人の1人に、M君という人物がいて、彼とは中学生の時の塾のクラスが一緒だった。お互い違うカルチャーで育っていたため影響しあい、仲良くさせてもらったが、彼はある私立高校に、私は地元の公立高校に進学した。1990年代後半のことである。
私の進学した公立高校は、「眠らないように注意しながら一斉講義を聴く」という授業スタイルが多かったように思う。当時は何の疑いもなく、授業とはそういうものだと思っていた。
だから、ある日、M君が私立高校で受けている授業の話を聞き、私はいたく興味を持った。曰く、「松本清張の『ゼロの焦点』を読んで、舞台である金沢まで研修旅行に行く。」とのことである。今考えると、「1つのテクストに継続的にアプローチし、作品と作家について深く理解・考察していく」ということなのだろうが、「なんだか遊びみたいで楽しそう」というのが私の初発の感想で、私立高校とはそのような楽しい授業があるのか、と驚いたが、その話についてはそれっきり忘れてしまっていた。
年月が過ぎて、2007年、私は教える仕事に就いていたが、「点数」と「合格」が価値基準となって勉強がとらえられていることにうんざりしていた。当時の私の問題意識は国語科授業における「モチベーション」と「テクニック」の問題で、その時思い出したのが、M君が受けていたダイナミックな「松本清張の授業」である。
「松本清張の授業」は、生徒の知的好奇心的モチベーションをケアする。そして、生徒の汎用的思考力にもコミットする。私が「どうにかしたい」と思っていたことを、解決しているように思えた。
今思えば、M君の高校は、現在のような教育パラダイムが揺さぶられる時代のずっと前から、スムーズな高大接続、“研究”的、“探究”的な学びを志向していたことになる。「松本清張の授業」は、今でもなお、高校生をのめり込ませる魅力を持つ授業であるに違いない。
とにかく、私は「松本清張の授業」という自分が受けたことすらない授業をイメージし、自分の日々の授業を少しずつ工夫しはじめた。テクストを分析させる記述問題を出したり、行動中心アプローチを試みたりした。「自分は実際には受けたことがない」という要素が重要だったのかもしれない。ゴール地点も目標もあやふやだったが、様々なことを試すことができたからだ。プロジェクト・アプローチの授業づくりを学んでからは、「松本清張の授業」が、自分にもできるかもしれないとも思う。
今、生徒の知的好奇心的モチベーションを大切にすることと、生徒の汎用的思考力にコミットすること、この2つへのこだわりを持つことで、やりがいを実感している。それに気づかせてくれたのが「松本清張の授業」だったのだった。
国際バカロレアDP TOK(知の理論)のキモは何か?
旧時代的な学校教育を存分に享受してきたという意味で“純ジャパ”の私は、IB校の先生達とうまく関係を築けなかった経験があり、教員としてのあり方にコンプレックスを持っている。だから、漠然とTOKというものに対し、日本で教育を受けて来た自分には欠けている「特別な何かを」教える教科というイメージを持っていた。
日本人には理解できない何かがあるのではないか?という疑い、TOKとは何なんだろう?という疑いから、もはや逃れられなくなった私は、進度に余裕のあるクラス限定で、ニセ授業をしてみることにした。
授業の予定を計算してみると、これに使える授業時数は5回程度だろうということになった。TOKを5回で授業するとしたら?いや、そうなるともうそれはTOK“ではない”。最終試験があって、それをめざして100時間勉強するIBのコア科目がTOKだろうからだ。
でも、「5回でTOKを授業するとしたら?」という問いは、同時にTOKのエッセンスとはなんだろうか?という問いでもあった。2年間のTOK授業を5回に凝縮したら、何が残るのだろうか。
当初私は、TOKのエッセンスとは、AOKとWOKだろうと想定し、これを教えようと考えた。様々な媒体で、TOKの説明が試みられているが、その特徴として、「体系的である」ことが強調されていることがあったからだ。
また、本編の授業と関連性を持たせるため、(TOK、IB、AOK、WOKなどの)本校生徒と全く関係のない単語は使わず、分析、思考という表現を使って教えることにもチャレンジしようと考えた。本当にTOKが効果のある授業であるのなら、一定の普遍性を持っているはずだからだ。
こうして私の「ニセTOK授業」が始まった。
授業を試行することの意味
授業を通年でやっていく中で、本を読んだり学んだりするたびに、ちょっとしたアイディアを自分も取り入れてみようと思うことによくでくわす。しかしそれらは、
・年度の途中からでも取り入れられることと、
・はじめからやっていないと意味ないこと、 の両方ある。
ニセTOK授業を始めてみると、その方面のアンテナが効きはじめるから、ああこれをやってみよう、次回はああしてみよう、ということが次々に思いつく。脳内で何かがつながって、7年前に見た、哲学の授業を扱ったドキュメンタリーのことも、思い出した。その哲学の教師は、「今からは、深く・静かに考える時間なんだ」と、少しモードを“切り替える”ためのルーティーンを授業開始時に行う。「考えることを良しとする」・「“わからない”を一段深めることをすすめる」ことを担保するために非常に効果的だと思う。普段と同じ教室を使っているからこそ、こういう雰囲気を大事にしたい。ただ、こういうルーティーンのたぐいは、はじめからそれをルーティーンにすることに意味があるから、来年からやろう。
来年はこうしてみよう、ということがたまっていってなんだか嬉しい。これが、ニセでも試してみることの最大最強の効果である。