5月 授業記録
1番目のクラスでは、以下のような手順で一連の授業を行った。
題材は、①死刑制度②新型出生前診断③社会と宗教 から一つ選ばせた。
【第1日1/2】ペアでテーマ決め→ネットで調査→ホワイトボードにメモ
【第2日】自分の立場を明確化・反論を想定して作文→エキシビジョン
【第3日1/2】生徒の書いたものを抜粋してプリントにして配布→振り返り(1)
【第4日1/2】生徒の書いたものを抜粋してプリントにして配布→振り返り(2)
以下、気づいたこと
●うちの学校の高校生は、考えることが好き。彼らの知的欲求に答えるためにも、深く考えることを重視している、という姿勢を見せようと努めた。具体的には、発表を募る、考えている生徒を待つ、意見交換の時間を長めに取る。など。教員が時間に追われている体でサッと切り上げてしまうとそれは、「深く考えず、次に行こう!」というメッセージになりかねない。と思った。個人的に反省点。
●第1日に、ネットを使わせて世の中にある賛否両論を調査させたが、これの有無はその後の考察の質を決めると思う。(この手順を踏まずに意見だけを述べさせたクラスでは議論が深まらなかった。)大人なら常識的に持っている知識の総体があるとしたら、高校生はピースの抜けたパズルのように“知ってる”・“知らない”にムラがある。前提条件・吟味するべき情報などたくさん与え、「じっくり考えていいんだよ!」という環境を担保したほうが良い。
●第2日には「書き途中」という生徒がいてもムリヤリ時間を切ってエキシビジョンの手順に移った。第3・4日は、第2日のうちに「書き終わってない」という生徒のためのバッファの時間にもなった。
●第3・4日は、生徒が真剣に考察して書いた文章を授業者が抜粋し、振り返りに使うことで生徒も視野が広がったかもしれない。こちらとしては、「生徒が書いてくれたものを読んでいるよ」というアピールをするつもりもある。
●超ベタとしか言えないような話題であるが、こういう話題について「ベタベタ」だからといって話し合うことを恐れてはいけない。この3つは、図らずもすべて生死にまつわる議論に収斂していくが、生徒は自然と真剣になった。
「TOKを取り入れた授業」についての考察
時折耳にする「TOKを取り入れる」とは、どういうことなんだろうか。
私は現時点で、「TOKを取り入れてみた」という授業の事例発表のみ、聞いたことがあるが、実物の授業は見たことがない。いつか見学できる日のために予想を記しておく。
TOKはIBのコアなんだから、IB校であれば「TOKを取り入れていない」はずはない。「TOKを取り入れている」ことは普通のことであるはずだ。
でももし非IB校であれば、「TOKのエッセンスを取り入れる」ことが起こりうるはずだ。
(ホンモノ)TOKと同じ授業時数、同じ最終試験を受ける状態
(レベル5)TOKの過去問や類似問題をもとに、エッセイとプレゼンを最終ゴールとして行う状態
(レベル4)TOKの用語やAOK・WOKで継続的に“知”に対するアプローチを行う状態
(レベル3)TOKの用語をちょっぴり使って“知”に対するアプローチを行う状態
(レベル2)TOKの用語やAOK・WOKで教科の事象を捉える状態
(レベル1)単純なクリティカルシンキング、分析をうながす状態
こんな感じだろうか。考え中。
考えたことを説明することの意味
今日はTOKの勉強会に参加した。
生徒が、「考えたことを筋道立てて説明することに意味がある。」というある先生の言葉に非常に勇気をもらった。
その先生は、40人生徒がいるから、全員でディスカッションすることは難しいので、グループで話し合い、書かせたものをエキシビジョンするそうだ。友達の書いたものを見て回った上で、さらにどのように自分の意見が変容したのかをさらに記録する。ということをしているそうだ。
月曜日、さっそく真似させてもらおう。
1番めのクラスは、前回トピックだけ与えてある。
はじめにルーブリックを渡して目指すものを共有しよう。5分。
調査をしながら自分の意見を作文する。15分くらい。
それをホワイトボードに転記するなどして、エキシビジョンの環境を作る。これは不要か?いや、インクの文字の見やすさは捨てがたい。
エキシビジョンをする。15分くらい。
最後に、友達の意見を見ての書き足しの時間をとって、残り10分くらいまで使って、終わった生徒から終わり、という形かな。
とりあえずやってみよう。
TOK(知の理論)はやっぱり“知”について考えなければならない、と思った件
私のニセTOKの授業では、「知識の領域」および「知識の枠組み」について、詳しいことは割愛し、「各教科」に置換して授業している。
でも、これはやっぱりうまくいかない。というか、私の認識不足だった。「各教科の知識」たとえば「古典における知識」とか「数学的知識」とした方がよかった。「知識」という言葉を使って範囲を限定しないと、けっこうとりとめもないことになってしまうのだ。生徒に考えさせても、話が“数学の授業中に行うこと“とか、”数学をどう勉強するか”という範囲まで、議論が広がってしまう。
この授業で取り扱うのは「知識」に関することなんだ、という意識がこちらに不足していたのだろう。
今まで、TOKの教師用ガイドを読んでも、「あーはいはい、これを教えるのね。」という感覚がなかなかおとずれず、ピンとこなかったのは、いったい何をする教科なのか、わかっていなかったからだ。
それは実は、私自身が“知識”という概念を授業であまり扱って来なかったからではないだろうか。(軽視していた)私は従来、問題演習を重視し、勉強を「テストを解くこと」とか「解けるように練習すること」というとらえる意識が強かったのかもしれない。
それぞれの教科の守備範囲をすべて“知”ととらえなおす。逆にいうと、知というものに概念化しなければ、批判的に見ることがしにくいのかもしれない。それに対し、分析を加えていくというアプローチが、TOKの特徴なのかもしれない。
ということは、生徒は数学の授業中にどんな“知”に触れているのだろうか。数学的知とは何か、ということを深く考えさせる必要があると思った。
TOKを教えるとはどういうことか 5月5日
TeachingTOK において、“場数を踏む”という概念があるとしたら、どんなものだろうか。
「これこれとこれこれのAOKを取り立てて話している時、こういうことを言う生徒がたまにいる。しかしそれは洞察が不足だ。こういうエピソードを提示しよう。別の視座が得られる」みたいな引き出しが増えることなのだろうか。
TOK的な問い について
TOKの問いについて私は現時点で、「TOK的な」としか表現できない。うまく言語化できない。「TOK的な問い」について、現時点での理解を言語化してみると、
- 簡単には答えが出なさそうな問い
- 「知」の扱い自体に関わる問い
- 複数のWOKを使って見方が代わりそうな 問い
いっぽう、以下はTOKにはそぐわないんじゃないかというもの
- 「本当に◯◯なんだろうか」と言う問い
- 「◯◯は本当はどうなんだろうか」と言う問い
- 「あるかないか」というCLOSEDな問い
ニセTOK授業を実施するにあたって
IBDPの場合は、TOKにはエッセイとプレゼンテーションという明確な目標地点があるが、私はエッセンスとして取り入れているだけ。ということは、何を目的にして授業を進め、生徒に何を目的に活動させるかというのは大きな問題である。
私がニセTOKを導入する目的としては、「分析力の向上させること」が最も大きかったので、ライティング課題をさせることにした。ルーブリックを用いることで、求めることを明確化し、 生徒に理解してもらえばよいだろう。
うまくいくだろうか。とりあえずやってみよう。